名馬 磨墨
歴史に名だたる宇治川の先陣争いに
梶原源太景季が乗った名馬 「磨墨」
歴史に名だたる宇治川の先陣争いに梶原源太景季が乗った名馬「磨墨」は、古来わが明宝気良の産まれと語り伝えられている。
今からおよそ八百年前、某家の牝馬が気良の北方烏帽子岳の麓、巣河の地において天馬の種を宿し生まれたのが磨墨である。その名のとおり色あくまで黒く精悍な容姿であった。
磨墨は、毎朝自分で厩栓棒(まぜんぼう)を外し巣河に向かって走り、蘭とも蛍草とも言われる霊草を食み、大滝の奥の乳白色の霊泉を飲み、形質ともに類のない駿馬になった。
今に、磨墨のゆかりを誇る気良の田城・下倉の両家には古くから轡(くつわ)を伝えている。弥右ェ門という家には馬銜の幅が二十センチもあって馬の治療に霊感あらたかなものとされる巨大な轡なるものが伝わっている。
元来この地は、寒冷・高燥かつ石灰分に富む良質な草が得られ、幕藩時代からこの度の大戦頃まで、高名な馬の産地であり、また往時のいわゆる鎌倉街道筋と言われることからも何らかのかかわりがあって磨墨が源頼朝公の手に渡ったのであろうと言われている。
その後は、梶原景季の馬として幾多の戦いに活躍し、最後は尾州羽黒(現在の犬山市)で没したと言われており、その英霊は梶原家の菩提寺興禅寺に手厚く祀られている。